自分では抱えきれないことや何か大変な事態が起こった場合、私たちはいったいどのように対応し、どうすればいいのかといったことに悩みながらも知人や同僚、身内など誰にも打ち明けられない、解決できない事柄が、面接室に持ち込まれます。 こころとは目に見えないものです。どのようにしたらいいのかを自分のなかで検討することがさらに深みにはまってしまう、こういった経験は誰しもあるでしょう。
心理療法の初回面接は、相談者と私たちが初めて出会う時間と場所です。それは相談者の苦しみや悲しみ、辛さを話してもらう最初の機会です。この面接は表層的な診断という枠組みを超えた、ひととひととの出会いの場でもあります。そこには対人関係でのパターンといったものが見え隠れします。また、1回または2回の面接で済むのか、それとも継続しての面接を実施していくのかといった、あり方や要望、必要性が相談者と面接者とのあいだで吟味されます。このような中から、後の経過や予後への見通しを見つける作業が初回面接です。
相談者の生まれ育ち、生きてきた過程の中で生じた心のしこりやとらわれ、傷つき、身についた対人関係の癖いったことが、今を生きることへの辛さ苦しさといった、さまざまな心理的問題の背景になっていることは少なくありません。またこころの問題として自覚されないまでも、人が成長し行くことはいつも新しい課題と直面しそれを乗り越えてゆくということの連続です。それは喪失の体験の連続とも言えましょう。1歳前後に母親の乳房という暖かな愛情と栄養を離乳によって失い、そして両親やきょうだい、仲間などまわりの人たちとの折り合いをつけて生きていくために、個人としての欲望や行動、自分は万能であるという空想を失います。進学受験や就職試験の失敗、仕事や学業上の達成のできなさや失恋という喪失も実感されます。
中年期には若さを、初老期や老年期には身体の故障、身近になった死をめぐるその時期特有の喪失も体験されていきます。また人生全体を通じて、健康の喪失、死去や離別による大切な人の喪失、社会的立場や経済面での喪失も体験されます。
心の悩みにはその人がそういう悩みを持つに至ったしかるべき理由があります。もともとの気質、まわりの人とのかかわり、さまざまな出来事・・・。その中で生まれて来た悩みが性格の一部になり、日常の中で自分でも気づきにくくなっている事があります。面接という対話の中から、なにが自分の中心的な課題かが浮かび上がっていきます。 そうした中心的な課題は、面接の場でありありと感じられるようになります。この面接の場では、日常生活のなかで起こる時とは異なり、受け入れられ、共有され、理解されることで、新しい展開の可能性が生まれてくるのです。そのような経過をたどりながら、これまでと違う、より無理のない人との関わり方、自分のあり方を見つける道筋がつけられます。
もし、一時的な強いストレスによって抱えた悩みの場合は、1,2会程度の短期の面接で、また悩みが知らず知らずのうちに慢性化しているのであれば、自分自身について知らなかった事柄に対して新たな理解、洞察を得るという経過をたどることが必要になるでしょう。 その相談者の内容によって時間や道筋が違うのはこのためです。
家族は個人の集まりの集団です。その個人が集団に及ぼす影響は、希望や喜びもあれば、寂しさや時に深い悲しみ、また激しい怒りにもなります。
情動は時として、自傷、ひきこもり、過食(嘔吐)、逸脱した性倒錯や家族への暴力として現れます。家族の一人がもがき・苦しむことは、見えない糸で結ばれている家族の絆に亀裂が生じます。
家族にとって、慢性的で不安的な本人に長期に付き合うことがもたらす負担は、感情表出(EE)―批判的コメント、敵意、情緒的巻き込まれすぎ、心配しすぎ―を高めるといわれています。高EEの家族は、「本人への対応に問題がある家族」ではなく、「孤立しSOSのサインを出している家族」と理解されるべきなのです。
抑えきれない情動を抱えた家族を、多岐の視点や方向をともに見つめながら、その家族のひとりひとりが、望まない犯人探しや悪者作りから開放されること、家族の一員としての機能を回復してゆくということが何より大切なことだと言えます。
家族の中の一人、そのひとの“力”のベクトルの意味や理解を援助することは、本人をはじめ、その家族への援助に結びつきます。これは本人と面接を行うことで、その家族へ刺激を与えます。そこから家族が新たな気づきを生む可能性が育まれていきます。これは、本人―家族―面接者という交流ゆえです。直接・間接的な相互交流です。こうして変容してゆくクライエントに刺激を受け、そのクライエントを見守る家族もかわってゆくことは、家族への信頼の回復、ともに協働してきた家族の力の復帰と再生につながります。